FIA認定 プロダクションカー世界ラリー選手権(PCWRC)チャンピオン
FIA(国際自動車連盟)認定の世界選手権4輪モータースポーツ部門において、日本人がワールドチャンピオンとなったのは新井選手が史上初である。正式なワールドチャンピオンの認定は、後日FIAより発表される。授与式は2005年12月9日モナコにて行われる予定。
FIA WORLD RALLY CHAMPIONSHIP

新井敏弘(あらい・としひろ) プロフィール

多くのラリードライバーを輩出し「ラリー王国」とも言われる群馬県に生まれた新井敏弘選手。周囲の影響も手伝ってか、すでに学生時代からラリー競技に魅せられていた。 国内地方戦ラリーからラリーのキャリアをスタートさせた新井選手は、瞬く間に全日本ラリーのトップドライバーに成長を遂げる。 1997年に全日本Cクラスチャンピオンを獲得すると、今度は一足飛びにパリ・ダカールラリーに初挑戦となった。

2000年アクロポリス

そして翌98年からは、いよいよWRC(世界ラリー選手権)にスポット参戦を開始する。1999年にはグル−プN車両でWRCチャイナ戦とオーストラリア戦で優勝を成し遂げ、一躍注目を集めることになる。翌2000年からはラリーの本場英国を拠点に活動し、本格的な国際ラリードライバーへと成長すべく修行を重ねる。

WRカーを駆る新井選手

ワールドラリーカー(WRカー)を駆った2000年は、アクロポリスで総合4位、サファリ6位と健闘し、日本人初のFIAチームズカップを獲得。 2001年〜2002年にはSUBARUのワークスチームであるSUBARUワールドラリーチームに在籍、ワークスチームのWRカーを駆る。2000年のアクロポリスに続き、2001年のキプロスにおいても総合4位の好成績を収めた。

勝っても獲れないチャンピオンの厳しさ

2005年ラリー・オーストアリア

2002年、新しく施行されたFIAプロダクションカー世界ラリー選手権(PCWRC)に、初年度からSUBARUインプレッサ・グループNで参戦。 2003年、2004年ともシリーズ2位の好成績を残している。

しかし、実際には2003年ニュージーランド、アルゼンチン、キプロスの3戦で優勝、フランスで2位と好成績を出しながらも、シリーズチャンピオンを獲り逃がしている。
2005年11月16日のチャンピオン獲得緊急記者会見の席上で新井選手は、
記者団の「いつの段階でチャンピオンを確信したか?」
という質問に対して『(本当は)ゴールするまでは判らない』と答えながらも、

『(2003年は)優勝3回、2位1回。それでも年間の順位は2位にとどまった。
ところが2004年の年間チャンピオン(N.マクシア スバル)は1勝もしていない。
これが(安定した走りが要求される)世界ラリー選手権の難しさ、厳しさ。』

と語っている。

2005年ラリー・オーストアリア

そして2005年シーズン。
2月にスウェーデンで開催された開幕戦のスウェディッシュラリーで早くも優勝。第2戦のラリー・ニュージーランドでは2位に入賞し、第4戦のトルコ、第7戦のジャパンでも優勝。年間を通して確実に高ポイントを蓄積してきた。

いよいよ夢が現実となる日が近づいてきた、2005年の最終戦ラリー・オーストラリア。
レグ1で首位を獲りながらも脱落したM.ヒギンズ。レグ3ではヒギンズに代わり新井を猛追したA.テイスコネンがコースアウトでリタイア。
『この時点で勝利を確信できた』と新井選手。
日本人初のFIAワールドチャンピオンの誕生である。

その他、2005年はFIAアジア・パシフィックラリー選手権にも出場し、第3戦ロトルア(ニュージーランド)、第5戦マレーシアで優勝。10月に行なわれた第7戦のタイランドでは2位としている。

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