【コラム】「EV普及と環境問題への意識~1990年代のEV」舘内 端との対談(1/2)

【コラム】「EV普及と環境問題への意識~1990年代のEV」舘内 端との対談(1/2)

2022年はEV元年ともいわれ、EV普及をより身近に感じるようになったかもしれない。EVの歴史は古く、1970年代から様々な取り組みがなされていた。ガソリン車からEVに置き代わる時代の変化を知るために、一般社団法人日本EVクラブ代表の舘内 端氏との対談を紹介する。
日本EVクラブ設立の経緯などから「環境意識」という命題がすでに1990年代半ばから語られていたということを知ることになるだろう。

■EVとレースの融合。日本EVクラブ立ち上げのきっかけ

赤井邦彦

赤井

舘内さんが日本EVクラブを立ち上げた1994年と言えば、いまから30年前です。当時、自動車関係の人たちの間ではもうEV論議はあったのですか? 私はガソリンをバンバン燃やすF1に夢中でした。

 

舘内 端

舘内

私も若い頃はレーシングカーの設計をしており、EVには興味なかったのですが、運輸省(現・国土交通省)の「低公害車普及委員会」に呼ばれて委員をやっていました。そこで、このままガソリン燃やし続けるのはやばい、という予感はありました。でも、レースは面白いですよね。音はうるさいし、オイルの匂いはするし。僕の心はEVとレースの両方を行ったり来たりで矛盾の中で生きてきた。そこで両方を一緒に出来ないかと考えたのです。

 

赤井邦彦

赤井

1990年代半ばというと、我が国の自動車市場にはEVなんて影も形もなかったじゃないですか? 国産初のEVである三菱iMiEVが市場に出たのが2006年ですから。海外ではアメリカ・カリフォルニア州の大気汚染対策としてGMが1990年にインパクトを発表し、その後EV1を96年に(リース方式で)市場に出しますが、日本では環境対策とEVが結びついているようには思えませんでした。

左図:インパクトの車両画像、右図:EV1の車両画像

左図:インパクトの車両画像、右図:EV1の車両画像

舘内 端

舘内

実は、1991年に国立環境研究所、東京電力、東京R&Dの3社がIZAというEVを作った。環境研究所の清水浩氏が中心になって作ったEVです。それに私は第三京浜で乗せてもらった。すると、すごく静かでなめらかな走りをするクルマだということが分かった。これはもしかすると私の分裂している二つの欲望を合体させることが出来るかもしれないと思った。EVも大切、レースもやりたいという欲望です。そこで、東京R&Dの小野昌郎社長(当時)に、「これでレースカー作ろう」と提案したのです。つまりEVのレースカーです。すると、小野さんは、「もうアメリカではEVレースは行われていますよ」って。

 

赤井邦彦

赤井

アメリカは進んでいたわけですね。というか、日本が遅れていた?

 

舘内 端

舘内

それで、こりゃ現地に見に行かなきゃいけないと思ってアメリカにEVレースを観に行ったのです。そこでEVレースやっている人たちに何でEVレースやっているのか尋ねたら、「エネルギー問題を考えてEVを開発している」って言うのだ。アメリカは石油が沢山湧きでる国でしょ。そこの人たちがエネルギー問題を考えてEV開発をしてレースしているって、すごいことだと思った。当時、アメリカはカリフォルニア州の大気汚染が大問題だったため、EV開発は環境問題のためかと思っていたら、それだけじゃなかった。その先を見据えて、エネルギー問題まで考えていたのだと知って驚いたのなんのって。

 

赤井邦彦

赤井

アメリカで刺激を受けて日本でもEVでレースやろうって考えたのですか?

 

舘内 端

舘内

いや、アメリカのEVレースに出ようと思ったのだ。それで、仲間を募って「電友1号」を作った。もちろんアメリカのレースに出ましたよ。フェニックスで行われたAPS Electric 500というレースで、クラス3位に入賞しました。そのあともガソリン車のエンジン降ろしてモーター積んだEV作ることにして、コンバージョン教室を開いたりしました。ユーノスロードスター、次にEVランサー、EVパジェロなんか作りましたよ。そうしたことをやり始め、組織があった方がいいと言うことで日本EVクラブを作ったのです。

■1990年代の欧州EVレースから環境意識の高まりを感じる

赤井邦彦

赤井

私は1995年に北欧で行われたEVラリーの開催に関わったことがあります。1995 Scandinavian Electric Car Rally(スカンジナビアンEVラリー) というイベントで、スウェーデンのイエテボリからノルウェーのオスロまで565Kmを5日間で走破するラリーでした。このラリーには世界中から30台の参加があり、トヨタ自動車ヨーロッパが送り込んだRAV4EVが優勝しました。こう言うと、トヨタが勝ったのなら当時だって日本のEV技術が世界一だということだ、という人がいます。確かにトヨタの技術は素晴らしく、このラリーに参加した自動車メーカーのうちトヨタ以外はルノーだけで、他は手作りEVが大半を占めていました。でも、ここで私が言いたいのは、日本の技術が優れていると言うことではなく、1995年に既にヨーロッパではEVの競技が始まっていたと言うことです。それは、一自動車メーカーのEVへの取り組みというより、社会の環境への視点の鋭さというもので、そもそもEVが世界に普及する前にEVラリーを開催し、環境問題を訴えかけること自体強烈な意志の表示だと思いました。

 

舘内 端

舘内

1995年に国をまたいでのEVラリーって凄いね。いまから30年前でしょ。既にそのときからヨーロッパは将来の環境破壊を予知していたってことですよね。その危機感からEVという回答を見つけようとしていたってことだよね。そこに出て行ったトヨタも凄い。

 

赤井邦彦

赤井

この事実を知ると、いまトヨタのEV技術が遅れているなんて言っている人は何を見ていたのかってことですよね。ラリーに出たRAV4EVが使用していたバッテリーはニッケル電池ですが、当時としては最先端のバッテリー技術だったと思います。

 

舘内 端

舘内

こうして見てくると、いまや花盛りのEVは1990年代半ばから花開いたということが分かる。しかし、1800年代に登場した世界初の自動車はEVであったし、世界で初めて時速100kmを突破したのもEVだということを忘れないでね。

■EVからガソリン車、そしてEVへ

赤井邦彦

赤井

しかし、1800年代終盤から1900年代に自動車技術をリードしたEVがガソリン車に取って代わられました。どういう理由からそうなったのですか?

 

舘内 端

舘内

アメリカで石油が湧き出たからだよ。加えて、電気網の整備が追いつかなかった。ヘンリー・フォードがフォードT型を発表したのは、アメリカでガソリンが非常に低価格で手に入ることが分かったからだ。もし、電気網がもう20年早く整備されていたら、EVはガソリン・エンジン車に駆逐されることはなかったと思う。

 

赤井邦彦

赤井

そのおかげで、皮肉にも今度は自動車がガソリン車からEVに置き換わる時代の変化を体験できているということですね。時代は巡るとはいいますが、これから先の社会変化に大いに興味をそそられます。次回はより身近なEVの話を伺いたいと思います。(第一回対談終わり)

第二回:「EV普及と環境問題への意識~EVが身近になった現代」舘内 端との対談(2/2)

ライター紹介

赤井邦彦事務所 代表

赤井 邦彦 氏

自動車ジャーナリスト。自動車雑誌編集部勤務のあと渡英。ヨーロッパ中心に自動車文化、モータースポーツの取材を続ける。帰国後はフリーランスとしてF1をはじめとする記事を雑誌に寄稿、自動車関連の書籍も多数出版。1990年に事務所設立、自動車関連広告のコピー、国内外の自動車、EV関連について執筆活動中。